錦糸



 「新撰東京名所図会」(明治41年)では、錦糸町について少し長くなるがこんなように説明している。
 「
本所錦糸町は、大横川の東部に位し、東西に延長せる土地なり。其の東は天神川に限り、西は大横川に沈み、南は松代町1・2・3丁目と茅場町3丁目及び柳原長・2丁目とに対し、北は柳島町と太平町1・2・丁目とに面せり。当町南境には錦糸堀ありて、大横川に通ず。本所錦糸町は元、錦糸堀と称したる地なり。大抵武家屋敷地にて、中央には酒井右京亮(小浜藩)中屋敷、柳沢民部少輔(黒川藩)、水野山城守(鶴牧藩)、内藤肥後守、伊沢美作等の下屋敷あり。東部には御徒組、竹本図書頭、高木鉄三郎の宅地。西部には御賄組、牧野遠江守・夏目近江守下屋敷、大島雲四郎の宅地ありしが明治初年上地となりしを以て之を併合し錦糸堀に沿へるより今の町名を附したり。明治24年3月更に亀井戸村飛地字矢場耕地の内を編入せり。
 当町には商家なし、其の大半は総武鉄道にて之を領有す。本所停車場はその西部に在り。北境には入堀あり、諸船常に出入して陸軍の糧秣及び鉄道の貨物を陸揚げし、若しくは搭載する所とす。其の東部南方には汽車製造会社東京支店工場、平岡工場、宮崎染工場あり、その中、汽車製造の工場は煉瓦造りにて、明治34年7月此支店を設け、鉄道用車両その他機械の製造に従事し、汽機4台125馬力を具へ職工498人を使用す・・・・・
」。
 現在の映画街のあたりだけが南に出張って錦糸町に入っていたもので、ほとんどが総武線の路線区域内であった。現在の錦糸の範囲は前記よりも北に延びて、北は清平橋から錦糸公園グランド境、東は横十間川、南はJR総武線の路線(南端)まで、西は大横川に囲まれた地域である。この地域の範囲は、昭和7年5月の区画整理によって出来たものであるが、昭和42年の住居表示の変更にともなう変化はみなれなかった。この地区は古くは、柳島、亀戸に属した農村地帯であったが、江戸時代の本所開拓では東端にあたっていた。元禄時代以後ほとんどが武家地で、大名旗本の下屋敷が多かった。中に御徒組御賄組の組屋敷、御弓同心屋敷なども切絵図にはみえている。
 維新に際して大名屋敷等を上地し、明治5年士族小邸を合併して新規に町としたものである。俗称でこのあたりが錦糸堀と呼ばれていたので、それをとって錦糸町とした。錦糸堀は、現在の錦糸町北口再開発地区の北側にあった南割下水につらなる掘割で本所七不思議の一つである「おいてけ堀」などにも目されている。
 錦糸堀については、「
岸堀」がなまっていわれたとか、「琴糸」を作っていたからともいわれるが、東西に通じる堀なので朝日、夕日の照りはえからいわれたのではなかろうか。
 昭和7年5月の区画整理では、併合などから、町一区画であったのが4丁目までに分かれ、北部に延びることになった。1丁目から3丁目までは、太平町の南一部をそれぞれ併せて成り、4丁目は柳島町の一部を合併したものである。それ以前にも、昭和5年には、JR総武線より南に張出していた現在の映画街の地域を江東橋4丁目に編入などはしていた。
 錦糸1丁目の津軽稲荷は弘前藩津軽家下屋敷のものが受け継がれたものである。錦糸小学校は、大正7年6月に現在の太平1丁目に東京市太平尋常小学校として開校、昭和4年現在地に移ると同時に校名を改めたものである。
 錦糸4丁目の大半は区立錦糸公園がしめている。この公園は関東大震災後の帝都復興計画によって造られた三大公園に一つで、当時の復興局旧陸軍
糧秣廠本所倉庫敷地を譲り受け、これに付近一帯の民有地を買収して大正14年9月着工し、昭和3年6月に完成、7月に開園したものである。戦災による犠牲者の仮の埋葬地になったりしたが、現在は区立体育館も出来、緑とスポーツのセンターになっている。
 また、墨田簡易裁判所は、交通違反の裁判所として、都内に知れ渡っている。
錦糸町が菓子問屋の街となったのは、関東大震災で製菓関係者が、区画整理による移転に際して集団換地をしたもので、錦糸町、太平3丁目先の元陸軍糧秣廠本所倉庫あとと、鉄道省用地、大蔵省用地に554軒が移転し、現在に続いたものである。昭和53年12月には駅北口が開設され、繁華街も広がりつつあり、北口の再開発もすっかり完成し、アルカディア、そごうデパート(5年足らずで廃店、1年後、複合店)東武ホテル、すみだトリフォニ−ホールと並び、平成15年3月19日には、半蔵門線が水天宮前から押上まで延伸され、南口もすっかり一新し、念願の南北を結ぶ地下道も完成し、また一層人出が多くなった今日この頃である。