小梅小学校

(向島2− 4−10)
開校 大正 9年 5月22日
校地面積 4522u









 幕府は、江戸の防火対策として、大名の上・中・下屋敷を各所に分散し、類焼を防ぐために屋敷内に緑地・庭園を設けることを推奨しました。本所は大名の下屋敷が集中する武家屋敷地として開拓された町ですが、ここに各大名たちは趣向をこらした庭園を作っていくことになります。今の墨田区役所付近にあった浩養園は、その代表格と言える庭園です。これは、文政年間(1818−1830)、沼津藩主水野忠成が将軍徳川家斉から賜った、別荘の庭に作られたものです。隅田川を望む風光明媚な土地に池や丘、茶亭が設けられ、江戸の名園として評判になりました。
 明治政府が新しく誕生すると、日本は近代国家を目指すようになりました。江戸は東京と改称されて、武家屋敷や町屋などで占められていた本所にも、明治36年(1903)、旧秋田藩佐竹家の屋敷を
札幌麦酒が買い取り工場を建てました。現在の墨田区役所・アサヒビール本部ビルがある場所です。また佐竹邸の庭園であった「浩養園」はビアガーデンに生まれ変わりました。庭園は文政年間(1818〜1829))に築造されたもので、ビアガーデンは、この浩養園の面影を残したまま作られました。ビールと一緒に名園として知られた庭の風景を同時に楽しむことができ、人気のスポットとなりました。
 その後札幌麦酒は、大阪麦酒・日本麦酒と合同で
大日本麦酒を設立。さらに昭和24年(1949)、大日本麦酒が朝日麦酒(現アサヒビール)と日本麦酒(現サッポロビール)に分割され、工場は朝日麦酒に引き継がれました。このため、朝日麦酒初の広告では、吾妻橋の工場にちなみ「ビールといえば吾妻橋」というコピーが使われました
 最後の水戸藩主で小梅邸にも住んでいた徳川昭武は、水戸徳川家の18男として生まれました。慶応2年(1866)に清水徳川家を継ぎ、翌年には表紙の説明のとおり、パリの万国博覧会に参加をしています。その後、慶喜のすすめもあり、パリで留学生活を送ります。留学中はもちろん、行き帰りの船中でもフランス語を勉強して、日記まで付けられるようになっています。
 しかし、明治元年(1868)新政府から帰国命令が出され、留学生活は終わりとなりました。
 明治4年(1871)になると、水戸徳川家の当主として、小梅邸に住むようになります。このころの日記には、
明治天皇が向島の花見や、海軍の端艇競争(ボートレース)を天覧する際に小梅邸に立ち寄ったこと、向島の料亭八百松で親族懇談会が開かれたこと、また当時の周辺のようすなどが書かれています。
 明治16年(1883)になると、長兄・慶篤の遺児である篤慶に跡をゆずり、隠居生活に入ります。そして翌年、松戸の戸定邸に移りますが、その後の小梅邸にはひんぱんにきていました。たとえば、明治18年(1885)の7月には、大雨による洪水の連絡を受け、小梅邸にかけつけていることが、日記からわかります。

「緋羅紗地三葉葵紋陣羽織(ひらしゃじ・みつばあおいもん・じんばおり)」という「はおり」があります。この「三葉葵紋」でお気づきの方もいると思いますが、この持ち主は、徳川慶喜の弟で最後の水戸藩主であった徳川昭武のものです。昭武が慶応3年(1867)1月に慶喜の代理でパリ万国博覧会に出席するため渡欧したときに持参して、ベルギーでの閲兵式で着用していたことが記録に残っています。
 慶喜や昭武の実家である水戸徳川家は、元禄6年(1693)に幕府から小梅村に下屋敷を拝領しました。これが小梅邸のはじまりです。
 大名屋敷には、上屋敷や中屋敷などがありますが、下屋敷は国元から送られてきた物資などを保管する蔵や、休息用の別邸として使われていたものです。小梅邸は隅田川沿いという場所柄から、別邸としても、蔵屋敷としても使われていました。
 
徳川慶喜というと、みなさんはどんなことをイメージしますか?多くの人は「大政奉還をした」とか、「最後の将軍」とか、なにかと「将軍・慶喜」をクローズアップしがちですが、実は多趣味で凝り性、その上、新しいものが大好きでした。
 明治維新後、慶喜は静岡に移り住み、政治の世界には全くかかわらず、趣味の世界に没頭しました。
 囲碁、謡、絵画、和歌などの文化的なものから、乗馬、鷹狩り、釣り、自転車などアウトドア的なものも合わせると20種類以上にのぼります。
 なかでも、特に熱中したといわれるのが写真です。自分の肖像写真以外にも、幕末の二条城などを撮影させたりしています。
 明治26年(1893)には自ら撮影をするようになります。その熱中ぶりは大変なもので、静岡の風光明媚な場所は、ほとんど写真に収めたと言われています。このとき慶喜はすでに50代後半。なかなかのパワーではないでしょうか。
 16歳という年の差にもかかわらず、慶喜と昭武はとても仲がよかったといわれています。
 2人の共通の趣味であった狩猟や写真撮影をしに、よく連れ立って出かけていました。
 そのころ、小梅邸の当主となっていた篤敬も写真好きで合ったため、2人はしばしば小梅邸を訪れ、向島の風景を撮影しています。そのいずれもが、かつてのすみだの風景を伝える貴重な資料となっています。
 明治のころ、ここに住んでいたのは、さきほどの徳川昭武や第12代当主の
徳川篤敬でした。彼らの共通の趣味であったのが、当時上層階級で普及し始めた「写真」だったのです。当時の撮影は、専門の写真師によるものでしたが、多くの大名はこの新しい機器に興味を持ち、進んで被写体となりました。
 その後、フィルムの扱いが簡単になると、自ら撮影する人々も多く出てくるようになります。
 慶喜や昭武の父にあたるのが第9代水戸藩主の徳川斉昭です。斉昭は、藩主になると、さまざまな改革を断行しました。積極的な人材登用もその一つです。それまで、家老職は代々家老の家から任用されることが常識だった時代に、実力がある者は身分が低くても藩政の現場に抜擢します。そのなかには、斉昭の片腕として活躍した藤田東湖もいました。
 そして斉昭の活躍は藩政の場にとどまらず、幕政にもかかわっていくようになります。しかし幕政をめぐる勢力争いによって、弘可元年(1844)にはとうとう幕府から隠居謹慎の命が下ってしまいます。そして、東湖も斉昭に連座して小梅邸に幽閉されてしまいます。
 明治維新後、現在の文京区の後楽園周辺にあった上屋敷が明治政府によって取り上げられてしまいます。これを機に、水戸家は小梅邸を本邸として利用するようになり、この地が生活の中心になっていきます。明治30年(1897)には、
徳川篤敬によって洋館が建てられました。
 しかし、大正12年(1897)の関東大震災によって屋敷は焼失してしまったため、跡地は売却され、震災後の復興事業により、現在の隅田公園として生まれ変わり、花見の名所として有名ですが、元禄6年(1693)から関東大震災が起こるまでの間、水戸徳川家の邸宅
「小梅邸」がありました。
 これにちなんで、昭和19年(1944)隅田公園に
東湖の歌碑が建てられました。特別展では、幽閉中に東湖が記した「弘道館記述義」の自筆草稿も展示します。
 こうして小梅邸は、江戸時代から明治、大正と200年以上にわたる、その長い歴史に幕を下ろしました。

 向島というのは、元々隅田川の西岸浅草側から、旧名である牛島・寺島・隅田・請地(うけじ)・須崎(すさき)・柳島などを指して「川向こう」といい、「むこうの島」「むこう島」と、呼んでいたものが一般に用いられることでできました。その初見は定かではありませんが、江戸時代のはじめといわれています。ただし、この時は呼称として用いられていました。
 向島には現在、言問橋と桜橋がかけられています。言問橋は、関東大震災後の帝都復興計画(ていとふっこうけいかく)に基づき、昭和3年(1928)に開通しました。橋の名称は、「伊勢物語」で在原業平(ありはらのなりひら)が詠んだ「名にしおはば/いざこと問はむ都鳥/わが思ふ人はありや無しやと」にちなむものです。
 言問橋の完成にともない、長年人々の足として利用されていた竹屋(待乳(まつち))の渡(わたし)は廃止されました。竹屋の渡は、三囲神社(みめぐりじんじゃ)の鳥居前から山谷堀(さんやぼり)待乳山(まつちやま)下までを結んでいました。その昔、三囲神社門前の茶屋「都鳥(みやこどり)」にお美代という女将がいて、対岸の船宿「竹屋」の舟を呼ぶ時に「お〜い、たけや〜」と得意の美声で呼んでいたものが評判となって、その名がついたといわれています。たいへん趣のある渡船で墨堤の花見や向島散策の際によく利用されていました。
 牛島神社(うしじまじんじゃ)は、元々、墨堤沿いの弘福寺・長命寺の裏手にありましたが、関東大震災により焼失し、現在の隅田公園の一角に移されました。ここは撫牛(なでうし)が有名で、具合が悪いところと同じ部分をなでると良くなるといわれています。本所の総鎮守で、5年に一度の大祭では、本物の牛が鳳輦牛車(ほうれんぎっしゃ)を曳(ひ)きながら氏子町(うじこまち)を練(ね)り歩くという盛大な祭礼が行なわれます。
 
 江戸時代の中ごろ、向島に清暉園(せいきえん)という、知られざる幻(まぼろし)の庭園がありました。
 江戸時代の文人・
中村仏庵(なかむらぶつあん)が向島に所有していた、清暉園という名の庭園付き屋敷について記録した資料です。清暉園のことは、同時代の記録や絵図にほとんど現れないため、これまで、その存在が注目されたことはありませんでした。
 清暉園の園主・中村仏庵は、宝暦(ほうれき)元年(1751)に、江戸幕府に出入りする御畳大工(おたたみだいく)の棟梁(とうりょう)の家に生まれました。身分は町人でしたが、旗本格(はたもとかく)の待遇を受け、江戸・神田に屋敷を拝領(はいりょう)し、昌平坂(しょうへいざか)学問所の
林鳳谷(はやしほうこく)の下(もと)で儒学を学ぶなど、特権的(とっけんてき)な地位を認められました。
 書に堪能で、特に梵字(ぼんじ)に才能を発揮し、仏教学の見識(けんしき)において江戸の人々に広く知られていました。また外国通でもあり、古今東西の仏像や骨董(こっとう)の収集家として有名で、それらの文物を通じて、
菊池五山(きくちござん)大窪詩仏(おおくぼしぶつ)など、当代一流の文人たちと交流がありました。
 「清暉園図記」によると、清暉園は向島の小梅村(こうめむら)にあり、園の北側に弘福寺(こうふくじ)、西側に三囲(みめぐり)神社、南側に常泉寺(じょうせんじ)があったと記されていて、今の向島2〜3丁目付近(すみだ郷土文化資料館近く)ではないかと考えられます。
 天明6年(1786)1月22日、江戸に大火が起こり、仏庵は神田の本宅(ほんたく)を焼け出され、小梅村に所有していた別荘に転居しました。しかし、同じ年の7月、今度は隅田川の大洪水により別荘が破壊(はかい)されてしまいます。この被害をきっかけとして、仏庵は新たに別荘に隣接(りんせつ)する土地を買い取り、広大な庭園付き建物を新築し、これを清暉園と名付けました。
 「清暉園図記」によると、清暉園は向島の小梅村(こうめむら)にあり、園の北側に弘福寺(こうふくじ)、西側に三囲(みめぐり)神社、南側に常泉寺(じょうせんじ)があったと記されていて、今の向島2〜3丁目付近(すみだ郷土文化資料館近く)ではないかと考えられます。
 天明6年(1786)1月22日、江戸に大火が起こり、仏庵は神田の本宅(ほんたく)を焼け出され、小梅村に所有していた別荘に転居しました。しかし、同じ年の7月、今度は隅田川の大洪水により別荘が破壊(はかい)されてしまいます。この被害をきっかけとして、仏庵は新たに別荘に隣接(りんせつ)する土地を買い取り、広大な庭園付き建物を新築し、これを清暉園と名付けました。
 清暉園の諸施設は、中国・インドなどアジア諸地域の文化を取り入れたエキゾチックな内容を備えていました。たとえば、各施設に付けられている名前は、ほとんどが漢籍(かんせき)や仏教・儒教の経典の字句から取られていました。
 また、「降魔室(こうましつ)」という茶室は、石畳(いしだたみ)を敷き詰め、「榻(とう)」という足付きの座り台を置くなど、純中国風の構造になっていました。中心施設である「南無仏庵(なむぶつあん)」には、中国・唐(とう)代のものと伝える釈迦(しゃか)の銅像やインド伝来という観音像が安置されていました。さらに「演智(えんち)」や「至観堂(しかんどう)」と名付けられた場所では、儒教と仏教の講義を行う計画が立てられていました。
 「清暉園図記」によると、清暉園は向島の小梅村(こうめむら)にあり、園の北側に弘福寺(こうふくじ)、西側に三囲(みめぐり)神社、南側に常泉寺(じょうせんじ)があったと記されていて、今の向島2〜3丁目付近(すみだ郷土文化資料館近く)ではないかと考えられます。
 天明6年(1786)1月22日、江戸に大火が起こり、仏庵は神田の本宅(ほんたく)を焼け出され、小梅村に所有していた別荘に転居しました。しかし、同じ年の7月、今度は隅田川の大洪水により別荘が破壊(はかい)されてしまいます。この被害をきっかけとして、仏庵は新たに別荘に隣接(りんせつ)する土地を買い取り、広大な庭園付き建物を新築し、これを清暉園と名付けました。
 しかし、巻物の解読により、資料館のごく近くに、きわめて個性的な江戸中期の文人の庭園が存在したことが明らかになってきました。
 清暉園は、単に仏庵個人の楽しみのための庭園というだけでなく、今で言う防災庭園の機能をもっていました。たとえば園の西側には、「義井(ぎせい)」という、地面から約3m以上も突き出た真鍮(しんちゅう)製の井戸がありました。これは、洪水対策用の防災井戸で、井筒を蓋(ふた)で覆い、隅田川の洪水の際に泥水が井戸に流入するのを防ぎ飲料水を確保して、それを洪水被災者に供給することを目的に造られていました。
天明6年7月の大洪水の直後から建設が始まった清暉園は、同年末までにほぼ完成しました。仏庵は、友人の儒学者・平沢旭山(ひらさわきょくざん)に依頼して清暉園内の施設に名前を付け、全国各地の著名な文人・画家たちに園内に配置する石碑や扁額(へんがく)・聯(れん)に記すための詩文を募集しました。清暉園はもし実現していれば、江戸時代の代表的な文人サロンとして百花園と並び称されるものとなったでしょう。
 しかし、仏庵の壮大な試みは幻の露(つゆ)と消えました。清暉園は、落成式の直前、翌天明7年(1787)1月に失火のため全焼してしまったのです。その後、仏庵は敷地の大半を売却、この計画が二度と日の目を見ることはありませんでした。
 結局、後世(こうせい)に伝えられたのは、「清暉園図記」という、一巻の巻物だけとなったのです。

 終戦直後、連合国軍は、日本に一切の武器引き渡しを命令し、刀剣類を主としたぼう大な数の武器が接収されました。これらの多くは廃棄されたり、海外に流出したりしましたが、北区赤羽の米第八軍兵器補給廠に集められた刀剣類のうち、美術的価値のあるもので旧所有者のわかったものは本人に返還されました。
 こうしたいきさつから、接収された刀剣類は俗に「赤羽刀」と呼ばれています。
 近年、「赤羽刀」のうち旧所有者がわからなかったもの4500本余りが国に帰属することとなり、そのうち3209本が広く公開・活用を図るため、全国191の公立博物館に譲与されました。その中の7本が、すみだ郷土文化資料館に譲られ、今回展示しているものです。
 資料館に譲与された「赤羽刀」の中には、区の無形文化財として登録されてい故
大崎繁春氏(刀工)が流れを受け継いだ刀工の作品もあります。
 「赤羽刀」は、長らく放置されたままになっていましたので、ほとんどが錆びついていますが、錆びついた日本刀を見る機会はめったにありませんので、その意味でも貴重な機会だと思います。