文花小学校
(文花 1−32− 9)
開校 昭和51年11月 2日
閉校 平成11年 3月31日
(文花小学校、西吾嬬小学校、第二吾嬬小学校)
統合により押上小学校となる
校地面積10,000u
通学区域
文花1丁目26番、29番〜32番 吾嬬第3中学校へ
1.さわやかな 風にのり きょうも元気な 声がする 隅田のながれ あづまの森 広がる広がる 力と力 ララララ ララララ 文花の子どもたち ほらね 希望にみちてくる 明るい明るい ぼくたちは |
2.かろやかな 雲に映え きょうも明るい 顔と顔 みどりの芝生 団地の窓 つながるつながる 心と心 ララララ ラララ 文花の子どもたち ほらね 光にかがやいて 明るい明るい わたしたち |
文花
吾嬬町西2・3・4丁目と吾嬬町東1・3・5丁目の地域が昭和41年5月の住居表示による変更によって、文花1・2・3丁目となった。
文花の地域は、南側が北十間川に面して、明治通りと十間橋通りに囲まれた5角形を呈している。文花を名乗るようになったのは、「この地域の中心に小学校、中学校、青年館、図書館など文教施設が集中し、他の地域に例を見ないところから(文)の字を冠し、旧町名由来の吾嬬神社の主祭神オトタチバナ姫の名から(花)を合わせ、文化の花を開くの意も含んで(文花)とした」といわれている。
吾嬬町は、吾嬬村から大正元年町制となったものであるが、村は明治22年5月、請地村、小村井村、亀戸村吾嬬耕地等が合併して、東村の名も考えられたが吾嬬神社の吾嬬にあやかり誕生したものである。そして大正4年、かっての大畑村、木ノ下村、上木下川村、下木下川村が合併して大木村となっていた部分の大半が、吾嬬町に編入された。
この文花のあたりは、文花1丁目の大部分が請地村の一番端の地域で、あとはほとんどが小村井村であった。当時の請地村は西に細長く、向島の秋葉神社のあたりまで拡がっていた。
「新編武蔵風土記稿」に「請地村は浮地なり。元大河に辺せし地なれば、浮地の義を以て村に名づけしを仮借して今の字を用ゆ。小名に沖田、1本木等の名残れり。沖田は蒼海の変より起り、1本木は船埋り帆柱の残りたり唱へ来ると言」とみえ、銅像堀のところから、十間橋の方へ流れていたかっての古川が、かっての葛西領の請地・押上・小村井・亀戸、平井・一之江、そして市川へと続く海岸線の一部であったと思われる。小村井の地名も古く、伊勢神宮に葛西氏から寄進された御厨に関する文書、応永5年(1398)の「葛西御厨注文」に記された38郷の内に含まれ、「小村江15町」とみえている。さらに永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」にも「遠山丹波守葛西小村井六拾五貫文」などと記されている。
小村井は、応永の「葛西御厨」の中にもみられたように「小村江」と呼ばれたものと思られ、入江に面した小さな村という意味から、そう呼ばれたものであろう。
文花の真ん中を中居堀が流れていたが、現在は暗渠となり中居堀通りとなっている。中居堀は、「瓦曽根溜井より分水し四つ木村までは古上水掘(後の曳舟川)の東に並びて引来り、同村内より次第に東の方に分かれ、渋江・木ノ下・大畑・請地・小村井、数村を歴、亀戸村の北にて北十間川に注ぐ。是は始まりより西葛西領本田筋村々の用水なり。堀巾2間ばかり、疎通の年月詳せず」と「新編武蔵風土記稿」にみえている。古上水よりも後の江戸時代中頃に開さくされたものではなかろうか。
明暦大火後の本所開拓の時に開さく整備された北十間川に注ぐ中居堀を少しあがった所に香取神社があるが、明治の初め頃までは目通り3bに及ぶ樟・松・杉などの大木がうっそうと繁っていたといわれている。その東側に名主小山孫左衛門の江東梅園(小村井梅園)もあった。更に、東武鉄道亀戸線の踏切を越えると、向島警察署があるが、ここは、かっての吾嬬町の役場のあったところである。昭和7年10月、吾嬬・寺島・隅田町が合併して向島区ができたので、そのあとを吾嬬警察署が使い、寺島警察署が戦災で焼け吾嬬警察署と合併して、向島警察署となっている。
昭和5年11月に字名を廃止して、吾嬬町東・西と丁目制をとっている。
現在の文花の地域の南半分は、戦後区営グラウンドになったりしたが、その後、曳舟中
学校、吾嬬第三中学校、西吾嬬小学校、あずま図書館、中小企業センター、あずま百樹園、都営住宅団地、文花小学校などが建設されている。かっては「女工哀史」などにもみられる東京モスリン吾嬬工場があった。明治29年に設立され、明治31年7月現在の記録をみると紡績機16台、織機660台、手織機350台を備え、職工1285名(内、男165名、寄宿舎930)によって操業されていた。
また、墨田区と石けんとのゆかりは深いが、ここには花王石けん東京工場がある。明治29年新宿から向島須崎町(現、向島5丁目)に工場を移して本格的な生産に入り、その後、請地に移り、大正11年現在の地に拡張移転したものである。福神橋畔に、大沢梅次郎銅像と吾嬬町道路整備記念の築道碑がある。
尚、平成11年には第2吾嬬小学校、西吾嬬小学校と文花小学校が統合され、新しく押上小学校が開校し3校は廃校された。また、曳舟中学校と吾嬬第3中学校が統合され、一時、曳舟中学校の校舎を使っていたが、平成15年4月1日に吾嬬第3中学校の跡地に新校舎が落成して、新しい「文花中学校」が開校した。廃校になった文花小学校の運動場だけが、民間に売却され、今、盛んに基礎工事が始まり、高層マンションが出現します。
東京大空襲
昭和20年(1945)年3月10日。この日は、人々の心に拭い去る事のできない深い傷をもたらした日です。
深夜、アメリカ軍が行った大規模な空襲で、墨田・江東区域を中心とした東京の下町地域が一瞬にして壊滅状態となり、女性や子供を含む多くの一般庶民の命が奪われました。第二次世界大戦下では、国民の戦意をくじくという名目で、こうした無差別爆撃が頻繁に行われ、世界各地の都市が標的となり、廃墟と化しました。中でも、この東京大空襲は今日に至るまで、世界最大規模の犠牲者をだした空襲といえます。
3月9日の夕刻に、マリアナ米軍基地を飛び立ったB29の編隊は、3月10日午前零時過ぎから約2時間余りの間に、約1,700tの焼夷弾をばらまき、大火災を発生させました。その被害は、死者10万人以上、焼失家屋約27万戸、被災者約100万人と推計されています。このような短時間の空襲による被害の大きさは、広島・長崎の原爆に匹敵するものといえます。しかし、被害状況を表す数値からは、その大きさを推測できても、実際にどのような人々が、空襲の犠牲となったのかは、見えてきません。
1945年3月10日。
東京大空襲の悲劇を忘れてはなりません
下町大空襲
3月10日の空襲は、米陸軍マリアナ基地の司令官、カーチス・E・ルメイ少将の指揮によって実施されました。ルメイの作戦は、ドイツのハンブルクに対する空襲と、すでに昭和19年(1944)11月1日から始まっていたB29による東京空襲の効果を分析し、綿密に計画を練った上で実行されました。それまでの空襲は、日中に高い高度から軍事施設の目視による精密爆撃を中心としていました。しかし3月10日の大空襲は、戦略を根本的に転換、夜間にしかも超低空から、レーダーを用いて下町の人口密集地域を焼夷弾で焼き払うという作戦が決行されました。
昭和20年3月9日22:30警戒警報発令、二機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、都民が安心した10日00:08に第一弾が投下された。東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らない。00:15空襲警報発令、それから約2時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。
各機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町に浸入した。都民の虚をついて来襲したB29の大編隊は、低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体を捉えたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。
B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40kuの周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空のB−29から機銃掃射が浴びせられた。折から風速30mの強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、火の玉のような火の粉が舞い踊り、強風に捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜け、直接戦争とは関係の無い一般市民は次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされた。
下町を襲った焼夷弾の脅威
米軍は、深川・本所・向島・浅草・下谷・日本橋を含む地域を「焼夷弾攻撃地域第一号」に指定しました。その理由は、家内工業と下請け工業が密集し、その労働者が居住する下町は、「すべての家が軍事目標」と見なされたためといわれています。そして、ここに2.6Ku当り60t以上の焼夷弾が投下されたのでした。
本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。
昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っている。時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。
まず、先導隊のB29が、瞬発的に火災を発生させるM47焼夷弾(ナパーム弾)を30.5m間隔に投下し、後続のB29のために目印となる火災を起こしました。この目標火点を火炎で網の目に結び、全体を焼き尽くすため、さらにB29の本隊がM69焼夷弾を撒き散らしました。これは、六角形の金属筒に、ガソリンを配合したゼリー状のナパーム剤が詰めてあるもので、着地と同時に尾部からこれを噴出し、家屋や人、荷物にくっついて燃焼させるという強力な焼夷弾です。その上、48発を1つに束ねて空中で分解する構造になっていたため、その投下密度は極めて高いものでした。
その威力を裏付けるように、M69焼夷弾の投下状況について「東武亀戸線の踏切近くで、一発のM69が自分の左横にいた女性の左肩をかすめて電柱に突き刺さって燃え、もう一発が自分より一歩前にいた男性ののどに突き刺さった。」という衝撃的な証言も語られています。
水運が支えたすみだの産業
すみだに数多くの工場が建てられた理由の1つに、用地が確保しやすかったことがあげられます。本所の広大な武家屋敷の跡地や、向島の土地の値段が安かったことは、工場の進出に好条件となりました。隅田川に直結する水路が発達していたことも見逃せません。本所には、竪川や横川など江戸時代の開発で掘られた水路が縦横に走っていて、交通や運輸に活発に利用されていました。また向島でも、曳舟川や中居堀などが舟運として使われていました。曳舟川は、本所の開発に伴って作られた上水でしたが、その役目を終えた後も輸送用の水路として使われました。このため工場の多くは川沿いに建てられ、川岸から原料の搬入や製品の搬出が行われました。こうした水運の発達が、すみだの近代産業を支えていたのです。
墨田の街角
戦後の復興期から高度経済成長をむかえた昭和30年代の日本は、衣・食・住ともに大きな変貌を遂げました。そして、墨田区も経済成長の一翼をになうように発展し、国勢調査による墨田区の人口は、昭和35年(1960)に33万1,843人という戦後最高のピークをむかえました。住宅や学校が急ピッチで建設され、自動車の増加にともない道路交通網も整備されました。また、河川の浄化や上下水道の整備、ゴミの収集改善など、よりよい町にするための生活環境づくりも進められました。
しかし、その反面で、交通量の爆発的増加や大気汚染といった社会問題が現れ始めためたのも昭和30年代からです。
街の姿と区民のくらしが大きく変化していった昭和30年代のすみだの町並みを紹介します。40年前の活気ある街角の中に、懐かしさや新しさを見出して、お楽しみいただければ幸いです。
昭和30年代というのは戦後の混乱・復興が終わり、日本経済の繁栄がスタートした時代でした。神武景気・岩戸景気に代表される好景気をむかえ、池田内閣による「所得倍増計画」の提唱と、昭和39年(1964)に開催された東京オリンピックは、日本の−特に東京の−町並みを一変させました。
そして、町並みだけでなく人々のくらしも、より便利に快適なものへと変化していきました。電化製品の普及とともに、白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」ともてはやされ、カップラーメンやコーヒーなどのインスタント食品の登場が食生活に大きな影響を与えました。また、東海道新幹線の開通やマイカーの普及は、人々をレジャーブームへと駆り立てました。今日の私たちの生活で活躍するものの多くは、この時代に生まれ、普及したといえるでしょう。
時代の遷り変わりとともに、すみだの町並みも大きく変わりました。戦後間もない頃は、空襲によって家を失った多くの人々が、焼け残った学校に仮住まいしたり、バラックなどの仮設住宅を建てて暮らしていました。子供たちは、焼け残った学校のわずかな教室を利用し、2部授業を余儀なくされました。やがて、昭和30年代になると、高層住宅が建設され、学校も増改築のほか鉄筋校舎も建設されると、このような住宅や学校の問題は解消されました。道路は砂利道から舗装道路へと変わり、溝も埋立てられました。
現在の街角とともに、すみだの懐かしい風景をお楽しみください。
昭和30年代になると、人々の環境衛生への関心が徐々に高まっていきました。それまでの町は、河川や溝などから発生する悪臭や大量の蚊・ハエなどに悩まされていました。その原因は、工場や家庭から流される排水とゴミの不法投棄、そして下水道の不備などが挙げられ、人口の増加とともに生活環境はさらに悪化していきました。
そのため、東京都は昭和30年(1955)7月から「蚊とハエをなくす運動」を提唱し、河川や溝の浄化と殺虫消毒、下水道の整備を進めました。また、それまで各家庭前に設置していたゴミ箱を撤去し、昭和36年(1961)から、ポリバケツのゴミ容器を定時に決められた個所に出して回収を行なうようになりました。
街路樹の植樹、花壇の設置といった美化運動がはじまったのもこの時代からです。昭和37年(1962)12月より、毎月10日を「首都美化デー」と定め、町をあげて町内の清掃や緑化推進といった活動が各地でおこなわれました。
昭和30年代はじめの墨田区内には、国鉄総武線のほか、東武線・京成線・都電・バス・トロリーバスが走っていました。主要道路には、都電やトロリーバスの架線が縦横に張り巡らされ、庶民の足として活躍していました。また、昭和35年(1960)には、都営地下鉄1号線(浅草線)が京成線との相互乗入れによって開通し、都心へ出るのがさらに便利になりました。
そして、昭和30年代に到来したマイカーブームは、今日の「クルマ社会」を生み出しました。道路の拡幅・舗装が進み、曳舟川は埋立てられて、道路となりました。昭和36年(1961)には、首都高速道路6号線の工事もはじまりました。自動車を中心としたスピード優先の時代へと進む一方で、自動車の急増は、排ガス公害や交通渋滞、悲惨な交通事故の急増を引き起こしました。排ガスによるスモッグが空を覆うようになり、交通事故を防止するためのガードレールや横断歩道橋がこの頃から設置されるようになりました。そして、自動車と道路を共有していた都電とトロリーバスは、交通渋滞の頻発からダイヤが不規則となり、昭和47年(1972)11月までに都電荒川線を除くすべての路線が廃止となりました。
自動車をめぐる渋滞や事故、排ガスの環境問題は、40年経った今日もなお課題となっています。