墨田区の小中学校
墨田区では各学校で生徒の数が、年々減り2、3校を統合して新しい学校へと切り替えが始まり小学校では第2吾嬬小学校と西吾嬬小学校と文花小学校の3校が併合して、新しく押上小学校が出来ました。場所は第2吾嬬小学校に、それは1度見学されると外観も内部も目を見張ることでしょう。
学校の校舎を見ただけでも、よくぞココまでと今までの概念を打ち消されるような、あでやかですばらしいデザインだと思いました。
子供たちも元気いっぱいに、はしゃぎ走りまわっている姿を見ると、こういう環境が今まで、もっと早く出来ていればなー?とひとり思いました。
私が見学に行った日は、たまたま土曜日の午前中だったせいか門の外から小さな子供ずれのお母さんたち大勢が、校庭の様子を見守る姿に新しい学校に対する感心が高いのかなと、勝手に感じました。
そこで無くなる小学校と新しく出来る小学校を順次、紹介します。
区立学校統合跡地利用について
●●第1位順位グループの西吾嬬小学校と曳舟中学校両校の跡地を一体的に活用する陸上競技場建設事業は、財政好転時の着手事業とて位置付け、暫定利用について取りまとめをしている。旧西吾嬬小学校の校舎の一部は早稲田大学との提携事業に使用する。
●●第2位絢にグループの第5吾嬬小学校と木下川小学校は、区財政が好転するまでの間、施設の暫定利用を考え地元との協議により、
●体育館、校庭、校舎の一部開放。
●防災活動拠点として存続し、災害時は校舎を避難所として活用することとする。
今後、管理運営方法や利用のルール作りについて地元と調整を図る。また、暫定利用後の本格利用について、木下川小学校は東墨田地区まちぢくりの種地に、第5吾嬬小学校は総合型スポーツクラブ事業を候補の一つに暫定利用期間中、、モデル的に実施したいと考えている。
●●第1順位グループ(小学校実施) 「第二吾嬬小、西吾嬬小、文花小」統合して、新しく
「押上小学校」
●●第2順位グループ(平成15年予定) 「第五吾嬬小、木下川小、更正小」統合して、新しく
「八広小学校」
●●第3順位グループ(未定) 「隅田小、隅田第二小」
●●小学校●●
●●中学校●●
●●●新しい中学校●●●
第1位順位グループ(中学校実施) 「吾嬬第3中、曳舟中」を統合して、新しく「文花中学校」
区内で一番古い学校
墨田区内で最も古いという中和小学校より更に古い公立学校があったことを御存知だろうか。それは、現・江東区立東陽小学校の前身である土屋小学校と昭和21年3月廃校になった牛島小学校の2校である。
土屋小学校の前身である「「小学第6校」は、深川森下町(現・江東区)長慶寺に置かれたが、明治4年に深川御船蔵前町西光寺(現・墨田区千歳)に移った。そして、明治5年(1872)の学制公布の際、東京府は6つの中学校区を設け、当校を第6中学校区第1番小学とした。続いて明治7年3月、第1番小学深川学校と校名を改め、更に、翌年1月、同土屋学校と改称。その後、深川区へ校地を移転、東陽小学校の名で今日に至っている。
土屋学校については、明治・大正・昭和期の言語学者・上田万年が、明治37年6月号の「帝国文学」誌上「故斎藤緑雨に就いて」の中で、友人の「斎藤緑雨は始めて本所弥勒寺橋畔にありし土浦藩主土浦侯が設立したる土屋学校にはいり」と記している。土屋学校は、その校名が示すように土浦挙直(しげなお)侯の寄付による建設である。
一方、牛島学校は学制公布から6ヵ月後の明治6年5月、第6中学校区第2番小学として南葛飾郡須崎村(現・向島三囲神社わき)に設立された。当時、学校の呼称は番号によったが、政府の校名設定の布告に従って、同年5月3日、第2番小学校牛島小学校と改称した。学校を番号でなく校名呼称に改めたのは、上記2校とも明治6年5月である。
本区教育史によれば、この2校に続いて明治8年、本所学校、江東学校、柳島学校、中和学校、墨陀学校、明徳学校の6校が設立された。しかし、その設立資金や維持費用のほとんどは公費ではなく民費によるものであった。
例えば、明治6年10月22日付の牛島小学校に対する「寄付者一覧」には、弐百円から二十五銭まで56件もの住民からの寄付金の金額と氏名が記録されている。当時の須崎村を中心として、中ノ郷村、請地村、小梅村の子弟が通っていたことから、同地域の住民からの寄付者名が多く、一覧の中には芸妓三吉という記載も見られる。このように牛島学校は、村民の苦しい生計の中からその資金を拠出したのであった。
なお、榎本武揚は、牛島学校の校名の篆額(てんがく)書いているが、墨田公立小学校の草分けであった牛島小学校が、戦後廃校になったのはかえすがえすも残念である。
いずれにしても、当時の本所・向島の人々は、教育に夢を託し、学校設立にだれみが情熱を傾けたのであった。
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